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2025/05/21

コラム

「成熟できない日本」 ―日本人が忘れている二つのこと― ②

日本のあらゆるリーダーの方たちへの提案レポート

「成熟できない日本」 ―日本人が忘れている二つのこと― ②

今回は、二つ目のコラムをお届けしたいと思います。

いよいよ日本が抱えている問題の今回に迫ります。

目次

5.    日本人が忘れていること1:真のリーダーの育成

6.    日本人が忘れていること2:価値基盤の更新と継承

7.    採るべき姿勢

8.    再生に向けた処方箋

リーダーシップを育む

根となる価値観を作る

5.      日本人が忘れていること1:真のリーダーの育成

昔購入した本に再び目を通してみた。著者が30歳代に購入した文庫本で著者は白洲次郎だ。書籍の名前は「プリンシプルのない日本」。この本は、白洲次郎が1951年から1956年頃までに『文藝春秋』や『新潮』『週刊朝日』などに書いた稿を中心に編纂されたものだ。

この本が世に出てから約70年も経過しているというのに書いてあることの多くは現代でも十分当てはまると感じた。白洲次郎は主体性なしに歴史を捉えている日本人の姿勢を痛烈に批判している。

アジア・太平洋戦争に敗れた日本は1945年9月から52年4月まで米国が主導する連合国軍の占領下に置かれた。連合国軍最高司令官総司令部GHQ主導の改革によって、日本社会は戦前から大きく変容し、民主主義的で平等な社会構造へと再編成された。

戦後の日本の統治内容を決めたのはGHQであって日本人政治家も行政も企業も国民もGHQが決めたことを日本に適用させることに力を注いできた。この努力を通じて平和主義、基本的な人権の尊重を根付かせてきた。また新憲法の発布や農地改革を行った。

当時はみなGHQからの指示を実現することで手いっぱいだったろう。主体的に未来を考える精神的・物理的な余裕がなかったことも十分理解できる。白洲次郎はそれでも批判を続けている。

いまや戦後80年が経過しようとしている。ところが先にあげたような「日本の進むべき道」はどうして今にいたるまで生まれてこなかったのだろうか。大成功だった戦後復興の歩みの中でわれわれが見過ごしてきたことに原因を求めざるを得ない。

戦後長い時間が経過したにもかかわらず私たちは不都合な事実を直視することをためらいがちであった。また、主体的に考え勇気を出して自分の価値観でもって未来を決めていく努力を怠ってきてしまったと思う。

振りかえればGHQ主導の統治は米国主導の「他律的」な改革だったため、日本人の自発性や主体性に欠ける側面があったと思う。極端な対米依存をしていたため日本社会に“他力本願”という甘えの構造を定着させてしまったといえる。変化は自分以外の誰かが起こすという姿勢が広まっていった。

戦後80年を経た今振り返れば真のリーダーは年々少なくなってしまったように思える。「あのリーダーのようになりたい、ついていきたい」というあこがれを寄せられる人は何人いるだろうか。逆に「あの人のようにはなりたくないな、ついていきたくないな」のほうが圧倒的に多いのではないだろうか。変化を自ら起こす真のリーダー育成を怠ってきたことは日本人が忘れていることの一つ目だ。

筆者が経験してきた日本の学校授業では、問題は先生が出して答えを生徒が考えるという分担が一般的だった。生徒同士で議論することはほとんどなかった。ところが、著者が39歳の時に1ヶ月ほど過ごした米国のビジネススクールの授業スタイルは大きく異なるものであった。

先生は冒頭20分程度授業のきっかけとなるようなケーススタディ事例の紹介をしたあとに、Yes やNoでは答えられないようなOpenな議論テーマを示す。例えば、「どうしてApple社はPAD(当時の手のひらコンピュータ)ビジネスに繰り返し失敗したのか?」というようなテーマだ。

そのあとに議論する時間が始まる。生徒は、自分の考え、課題と思ったことを、手を挙げて先生に指名されると話しはじめ、さらに生徒間に議論が広がっていく。ここでは先生はきっかけを与えるだけで問題の本質を突き詰めるための質問や議論は生徒自身が主役となって進めていった。要するに問題は先生ではなく生徒自らが考えだすのだ。

先生の支援を受けつつ自らの力で問題の本質をつかもうとしていく思考方法はビジネススクールだけのものではなく幼少期からの教育でも同じだと思う。そして日本との差を生み出してしまう根本的原因になっている気がする。日本はフォロワーを育てていてリーダーを育てるような教育スタイルではないのではないだろうか。

リーダーを育てるには生徒にたくさん考えさせ人を動かす説得力を身に着けさせることが必要だ。考える手法、説得力を持つための工夫をどうしたら獲得できるかが教育テーマになってくるだろう。

考えさせる教育では結果的に生徒はたくさん失敗もするだろうがそれを励ましつつ前を向かせることも教育だとおもう。日本の学校ではどこまでできているのかが気になる。ひょっとしてリーダーシップスキルは社会に出てからの話として学校教育の場で片付けられているとなるとかなりまずいと思う。

初等教育から批判的思考と創造的問題解決能力を育成し、課題発見と解決策を提案することができる人材作りに改善していきたいものだ。

6.      日本人が忘れていること2:価値基盤の更新と継承

戦後に対米依存に陥り他力本願な姿勢をもってしまった日本のもう一つの課題は日本人の共通の道徳や価値観を更新する努力を怠ってきてしまった点だ。

新渡戸稲造は1900年に出版した「武士道」で「日本人の心にその証を立て、了解されてきた神の国の種子は「武士道」となって花開いた。しかし、いまやその日は暮れようとしつつある。私たちはあらゆる方向に目を向け、美と光明、力と慰めの新たな源泉を探し求めているが、いまだに「武士道」に代わるべきものを見い出せないのだ。」と書いた。

これは125年前の言葉なのだが実はいまだにこの「武士道に代わるべきもの」をわれわれは見い出せていないのではないだろうか。

「武士道」は武士にとどまらず当時の日本人が共有していたといってよい。この価値観という土台の上に個人の心情や規範を重ねてきた。その教えは以下のようなものでこれらの徳目は行動によって初めて価値が生まれると新渡戸は説いている。

・   義(正義): 人として正しい道を歩むこと。「武士道」の中で最も重要な徳目であり、社会秩序の基盤となる。

・   勇(勇気): 義を実践するための強い心。義が伴わない勇気は価値がないとされる。

・   仁(思いやり): 他者への慈愛や共感。特に弱者への配慮が武士として称賛される。

・   礼(礼儀): 他者を尊重し、調和を保つ行動。形式美や無駄のない作法を重んじる。

・   誠(誠実): 嘘偽りのない正直さ。武士の言葉は真実の保証とされる。

・   名誉: 自己を磨き、高潔さを保つこと。社会的評価と自己尊厳を重視する。

・   忠義: 主君や他者への献身。忠誠心が「武士道」の根幹となる。

個々の教えは現代でも尊重されるべきものの認知度は年々低下していると感じてしまうのは著者だけだろうか。

価値観と言えば現在は「多様化」という声に覆いつくされてしまい、かえって混沌としてきていないだろうか。「多様な価値観」は素敵な言葉に聞こえる。しかしながら、日本人としての根っこが存在しない状況で多様性をうたうことは非常に危なっかしい気がしてしまう。貧弱な土台の上にこれまで建築経験がない建物を載せるような危うさを感じる。

それは日本人の根底にある価値観からいまだに抜け出そうとしていないこと、いやむしろその価値観さえ忘れかけてきていること。そして新しい試みも中途半端な状況にあり問題意識を持たず深く考えないためではないだろうか。

誤解がないように申し添えれば著者は「武士道」を否定するつもりはない。ただ、再評価するならばしっかり検証し、教育の場でも取り上げて未来へ伝承する努力をすべきと思う。再評価もせず未来へ引き継ぐこともしていないという点が問題だと申し上げたい。

この価値観の更新と継承を行わなかったことは日本人が忘れていることの二つ目にあたる。

7.      採るべき姿勢

現在の経済停滞と価値観の未更新の間には類似性がありそうだ。どちらの問題にも積極的というより反応的に自己を定義し、とにかくも前進することに苦闘してきた国の姿が垣間見られるからだ。

経済モデルと文化的アイデンティティのこの一見奇妙な結びつきは、日本の課題が単に技術的または政策的なものというよりも、より根本的なものであることを示唆している。

日本人は天災や戦争などから復興する姿勢や力は評価されることが多い。だが一方でその原因を徹底して探り、冷静に課題を見つめ評価し進むべき道を自らの力と代償によって次世代につなぐことは不完全だったと感じる。

日本人は悪いことは早く忘れ前を向くことを優先してきたと思う。しかし目先の儲けにもなりにくく評価もされにくいかもしれないけれど長期的な観点をもって土台をしっかり作り上げることこそが個人にも企業にも政治にも求められているのではないだろうか。

相当数の日本人は「変化は常に外からやってくる」「決めるのは自分以外の誰かだ」という前提を心の奥底に持っている感じがする。これからは変化を自ら起こそうという気概とリーダーシップが欲しい。

そのためには私たちに必要なことは過去の成功体験に惑わされず不都合な事実からも目を逸らさず世界感覚と時代感覚を養い自らの力で仮説を立てて未来像を決めていく姿勢とリーダーが必要だ。

その取り組みの過程では抱える構造的課題をみつめなおし国民共通の道徳や価値観の再検証が求められよう。この努力の延長線上に初めて以下のような国家レベルの課題に正面から取り組める。

・   世界における日本の立ち位置をどのように設定していくのか、何をグローバル優位性にするのか、グローバルで所得順位が低下していく状況をどのように改善するのか。

・   人口減と高齢化により生産年齢人口が減少する社会で何を目指して何を対策するべきか、成長を継続するための成長モデルは何でどのようなスキルとプロセスを優先的に獲得するのか。

これらの解決のためには日本人はまず自分たちが何者であり、何を代表し、どこへ向かうのかという根本的な問いに正面から向き合う必要がある。そのためには腰を据え10年計画くらいの根気が求められる取り組みが求められよう。

この取り組みの先にある日本はどのような姿だろうか。小規模な国家ではあるが魅力あふれる「道徳観・価値観」をもつ市民が「真のリーダー」に導かれ未来を見つめて生活できる幸せな国家になることではないだろうか。

幸せな国家とは高度成長期のような規模でNo.1を目指すのではなく、質の向上を目指す考えではなかろうか。そのうえで新しい経済成長モデルを作り並行して社会的成熟度向上をめざすことだと思う。

8.      再生に向けた処方箋

時間がかかるかもしれないがまずやるべきこととして、国家的戦略のもと人的投資を通じてあらゆる場でリーダーシップを育むことが非常に重要なことと思う。並行して日本の骨格となる価値観を作り共有することだ。

リーダーシップを育む

家庭であれ、職場であれ、どのようなチームでも必ずリーダーとメンバーで構成されている。そしてそれぞれには役割があるはずだ。ここでいうリーダーとは必ずしもチームで一番偉い人とは限らない。メンバーであってもその役割において一流であることを目指す姿勢を持てばその役割においてリーダーなのだ。

一流のリーダーは、世界観と歴史を学んだうえでチームの進むべき方向を指し示してメンバーをそこに行くこと、その手法を説得できる人材である。そのためには、その世界を知ることが前提だ。そうでなければ一流であるかどうかは判定できない。そのうえで歴史に学ぶ知恵が求められよう。

当然ながら進むべき方向が困難なものほどメンバーを説得することにも骨が折れよう。情熱に加えて知性が求められ当然メンバーからリスペクトされなければならない。

教育の場での改善も必要だ。著者が米国で経験したように先生はきっかけを与える一方で問題や対策は生徒自らが作りそれをクラスで生徒が共有するようなスタイルをもっと取り入れるべきだ。

会社でもそろそろ労働組合は不要になっている。かつて労働者対使用者という構図があったけれど、「労働者」という言葉には常に搾取される人というトーンが付きまとう言葉だ。自らの専門性とスキルで会社に貢献する人材を意味する言葉ではない。もはや「労働者」は本人も周りも誤解を生む言葉になっている。

今の日本が抱える課題を対策するためにリーダーを育むことは何よりも優先順位が高いと思う。なにも海外に例を求める必要はない日本にもリーダー育成の好事例がある。

戊辰戦争で敗れた長岡藩は250年あまりをかけて築き上げた城下町を焼け野原とされてしまった。窮状を知った支藩の三根山藩(現新潟市西蒲区峰岡)から米百俵が見舞いとして贈られてきた。藩士たちはこれで一息つけると喜んだ。食べるものにも事欠く藩士たちにとっては、のどから手が出るような米であったはずだ。

しかし、藩の大参事小林虎三郎はこの百俵の米は文武両道に必要な書籍や器具の購入にあてるとして米百俵を売却しその代金を国漢学校(現:阪之上小学校の起源)の資金に注ぎ込んだ。有名な「米百俵の精神」だ。

小林虎三郎は佐久間象山の門下生であったが、敗戦後文武総督に推挙された。虎三郎は、焼け野原のなかで、「国がおこるのも、まちが栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ。」「時勢に遅れないよう、時代の要請にこたえられる学問や芸術を教え、すぐれた人材を育成しよう。」という理想を掲げその実現に向けて邁進した。

こうして近代教育の基礎が築かれ、国漢学校は後年東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学・医学博士の小金井良精、内務法務大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥などの新生日本を背負う多くの人物が輩出したという。

日本は昔も今もそしてこれからも天然資源は乏しくそこに活路を見出すことは困難だ。頼るべきは人材に尽きる。「米百俵の精神」はどこに投資すべきかを明快に伝えている。あらゆる組織において人材に投資をし、輩出した優れた人材が考え発言し行動することを通じて未来を切り開くしか手段はない。

著者が経験した企業では多くの人材育成プログラムがある。リーダーを育成するためのタフアサインメントもタフなリーダー育成の方法として活用されている。そうして常に数十名規模の社長候補集団を抱えている。

同様に国家予算にもリーダーシップ人材育成に投資するプログラムがあって良いと思う。さらに目標となるようなリーダーシップ国家資格制度もあると加速すると思う。

米国YSEALI(Young Southeast Asian Leaders Initiative)は、米国政府によるリーダーシップ育成・ネットワーキング・プログラムであり、米国と東南アジアの人々の絆の強化と、国境を越えて共通課題の解決に取組むリーダーのコミュニティ育成を目指している。

東南アジアの若者からの要望に応え、「市民参加」、「経済的エンパワーメントと社会的起業」、「教育」、「環境問題」、という4つのテーマに焦点を当てている。

こうした取り組みを日本政府も取り入れたらいかがであろう。日本人のみならず海外のリーダー育成に寄与するのではないだろうか。

根となる価値観を作る

世界に誇れるような日本の道徳観を作りそれを国の美徳とし、その美徳が海外からも魅力的に見える国にするのはいかがだろうか。

そのうえで美徳を兼ね備えたリーダーを作る投資をする。道徳観に裏打ちされた形で約束を守る国としてブランド化することを目指すべきだ。このためには産学官連携による「日本の価値」に関する国民的対話の場の創設も役立つかもしれない。

先に述べた「武士道」で謳われている徳目の一つ一つは輝きを全く失っていないと思う。それどころかますます貴重になっている。例えば、礼(礼儀):他者を尊重し、調和を保つ行動は日本の誇る「おもてなし」の原点だと思う。ポピュリズムが跋扈するようになってきたこの世界で極めてユニークで魅力的な価値観だ。

ただし「武士道」的価値観をどう再解釈し、具体的にどのような形で社会に根付かせるかについては、詳細で慎重な議論が必要だろう。特に多様性と包摂性が重視される現代において、伝統的価値観を更新する方法論を見出すことがまず求められる。

「武士道」に一つだけ付け加えるとしたら「失敗」に対する寛容さと強靭さではないか。これからは「新しいことをやろうとするのだからむしろ問題が出ない方がおかしいのだ、失敗もゼロなんてありえないのだ。」という感覚を持つことも重要だ。むしろ失敗した人の方が発言に重みがあると思えることも多い。

とかく過去の経験値に頼って解決策はこれ限ると思い詰めひたすら自分に鞭を入れた挙句に、不幸にして失敗すると深刻に打ちひしがれてしまうようなケースが日本人に見られやすい。かつて著者もそうだった。失敗することを恐れてチャレンジしていない人材も多くいた。しかし、これからは「敗者復活戦」は大いにありうる社会にしたい。

失敗してもやり直しの効く社会へ転換することを考えるべきだ。失敗してもどこが失敗原因だったと冷静に振り返り、次に同じ失敗は繰り返さないことが言えるのであれば再チャレンジできる社会であるべきと思う。

コラム3へ続く

2025年5月

ベストスキップ株式会社 シニアITコンサルタント 菅宮徳也

― 著者紹介 ―

大手電気メーカでIT関連の経験を積み2024年7月よりベストスキップ株式会社にてシニアITコンサルタントとして従事。

✓ 東南アジア向けメインフレーム営業・事業企画

✓ 金融機関向けITシステム活用研究・コンサルティング

✓  金融機関向けシステムインテグレーション事業企画

✓  米国ITシェアードサービス拠点設立・運営

✓  グループIT・セキュリティガバナンス

✓  グループ標準アプリ開発・運用

✓  鉄道車両・信号システム事業部門(本社は欧州)の国内CIO